ロッキンバードはむせび泣く

音楽を中心として好きな物について語っていきます。

山下達郎 サブスク解禁一生しない発言について


先日ヤフーニュースでこのようなタイトルの記事が流れました。

 

タイトルが割と衝撃的だったので攻撃的な発言が中心かと思い興味深く記事を読み進めてみると、実際には山下達郎のキャリアを通じた音楽観、哲学などが綴られておりとても興味深い内容の記事だったと思います。

(恐らく購読意欲を掻き立てる為にあえてこんなタイトルにしたのでしょう。)

 

山下達郎

 

さて、本題のこの発言ですが、ご本人はこのように語っておられます。

 

「だって、表現に携わっていない人間が自由に曲をばらまいて、そのもうけを取ってるんだもの。

それはマーケットとしての勝利で、音楽的な勝利と関係ない。

本来、音楽はそういうことを考えないで作らなきゃいけないのに」

ヤフーニュースより

 

この発言の意味する所は、恐らく我々リスナーには想像もつかない、実際の制作現場のシビアな実情が内包されているのではないかと思います。

アーティストとしての拘りや、かけてきた情熱に見合うだけの見返りが得られないと感じているとも言えるのではないでしょうか。

 

 

 

ただ私は1リスナーとしていうならば、サブスクを解禁して欲しいという立場です。

 

なぜなら、以前の記事にも書きましたが、サブスクにより音楽を視聴するハードルが下がり、より多くの曲と出会う事ができるからです。

 

私は以前少しですが音楽を志していた時期があり、その時、より多くの音楽を聴かなければならないと感じていましたが、物理的に限界があると思っておりました。

もし当時サブスクがあって沢山の曲を聴く事ができていれば、音楽的幅がもっと広がっていたのではと思う事もあります。

 

まあそれは言い訳にしか過ぎないですが、私がこのブログ内で「聴かず嫌いの名曲選」という記事を書けるのもサブスクがあっての事だと思っています。

 

kensomusic.hatenablog.com

 

 

ただしかし、山下達郎の言っている事も十分理解できます。

彼はこのような発言もしております。

 

「売れりゃいいとか、客来ればいいとか、盛り上がってるかとか、それは集団騒擾。音楽は音楽でしかないのに。音楽として何を伝えるか。それがないと、誰のためにやるか、誰に何を伝えたいのかが、自分で分からなくなる。表現というのはあくまで人へと伝えるものなので」

 

この発言はしびれます。

これはヒットチャートにとらわれたここ数十年の日本の音楽シーンに対する痛烈なアンチテーゼともとれるからです。

 

そもそもポピュラーミュージックとは何なのでしょうか。

 

ただただ流行りや時代の流れに乗じて垂れ流す消耗品なのでしょうか。

 

ヒット曲とはマーケティングの勝利なのか、音楽の勝利なのかどちらなのでしょうか。

 

 

 

甲本ヒロトの名言にこのような言葉があります。

 

 

甲本ヒロト

 

 

 

 

言い得て妙といった感じでしょうか。

 

 

 

 

音楽を愛する者の憂いはまだまだ続きますね。

 

 

 

 

ではまた。